前に言った通り本の話をする。
自分の価値観の指向性を確定させたのがこの本、"安心社会から信頼社会へ:日本型システムの行方"である。
この本で自分は日本と海外では社会的関係性及び規範意識の構築のされ方が全く違うと理解した。
本書で記載されている"安心社会"と"信頼社会"の定義と違いはこうである。
・安心社会
関係性の固定(コミットメント)化、構造化を行い、各種リスクの軽減及び無力化を図る社会環境
・信頼社会
関係性の流動化とリーダーシップ(信頼性)による各種利益の最大化を図る社会環境
日本が安心社会、海外が信頼社会と言われている。余談だが、安心社会の形態をとっている国は世界で日本のみである。
本書にはこの傾向を裏付ける様々な研究があるが、ここでは割愛する。
これより自分の想像となるが、安心社会と信頼社会の本質的な違いとは、一神教の歴史の有無である。
信頼社会の維持のためには、信頼できるものとできないものを区別するための世俗を超越する強力な規範、すなわち神が必要となる。
世俗に属する規範では人間の都合がつく限り、改変されたり無視されたりする。これだと信頼性の分裂が起き、統合の用を成さない。また多神教では厳しい。多神教では神の世界にも世俗の不信性が持ち込まれてしまい、規範となり得ない。
このため信頼社会(=海外)では、ほぼ全ての地域で一神教や一神教的神権政治の歴史が存在する。
安心社会では規範は各々の集団の中で規定すれば事足りるため、神への帰属を必要としない。せいぜい自然の象徴として崇敬されるのみである。
世俗を超越する規範意識の視点も社会に存在しないため、人間は建前と本音を堂々と使い分けるようになる。
倫理規範に根拠を定義できないため、人間の解釈に責任の概念を付与できない。このため事なかれ主義が積極的に利用される。また目的意識の定義が曖昧な政界等では責任が有名無実となる。
一神教はおろかあらゆる神、規範が軽視される。
こう書くと安心社会が致命的に劣るように聞こえるが、弱者にとっては安心社会の方が絶対的に良質である。
なぜなら、安心社会では信頼性の欠如のみを理由に排除はされないからだ。信頼社会では、信頼性的に劣っているものに徹底的な淘汰圧がかけられる。存在意義の否定もざらにある。
さらに、資源問題や環境問題、格差問題の顕在化に伴い、強者にとっての信頼社会の優位性も薄れている。
自分はこれから海外でも安心社会的価値観が評価され始めると思っている。
あとがき
アファンタジアと短期記憶障害の自分にとって、書評はかなり難しいものとなった。メモが意味をなさないため、書きながら要約する他なかった。何回も書き直し、相当な時間を要した。
思えば読書感想文はまともに書けず、見本を丸写ししていた。変に賞を取らないように其時の模範作文を一字一句ずらさず用いていた。当時は自分の発達事情を鑑みて見逃されていたのだろう。
安心社会の無責任さを自分は気に入っている。自分そのものであり、保障となっている。信頼社会が日本に持ち込まれない事を祈る。
今後も各種事象の解釈に本書の引用を用いようと思う。更新頻度も元に戻したい。