人間廃棄物の醜悪な世界観

人間廃棄物。注意欠陥障害に特化した発達障害。短期記憶、映像記憶使用不可。就活無期限停止中。醜悪な人間性の視点から社会的関係性の在り方を見ています。

乙武洋匡氏を醜悪さを自覚する精神障害者が見て

障害者の界隈では、現在乙武洋匡氏が一番新鮮な話題となっている。何でも補選に出馬するという。だが政党からの推薦が不透明らしい。なかなか粘性が高そうだ。

 

乙武洋匡氏は"五体不満足"の著書で知られる、四肢欠損の障害を抱える身体障害者である。

まあ自分に言わせれば、注意力や性格形成の素養に障害を抱えているほうが余程絶望感に浸れる。彼はまだましな人間だ。

 

彼が補選に出馬する上で痛い不評が、不倫問題である。なんでも5回浮気をしていたらしい。内容がどうあれ、人間的魅力を実現できなければありえない話である。ため息が出てしまった。

日本人は政治の信頼性など認識すらしていないが、安心感には敏感だ。頻繁に不倫する箔のない候補には日本人は寄り付かないだろう。そこで彼は政党からの推薦を狙った。

自民は推薦を断念した。裏金問題の影響が各工程を機能不全としているようだ。まあこの話はどうでもいい。与党なら皆やることだ。

国民と都民Fが推薦し、乙武氏は都民Fの副代表となった。果たしてどれほどの効果があるか。

 

自分は乙武氏を少しだけしか評価していない。評価点は、積極的に話題作りをしている事実のみである。

障害者の受難とは、物理的な限界などではなく、善性の恒久的欠如に伴う社会的排除にある。

乙武氏は自分を善性の象徴としようとしているが、それは善い結果とはならないだろう。

ほぼ全ての障害者は他者のもつ善性に対して羨望、嫉妬、憎悪の念を抱いている。善性の宣伝を主とする社会的活動は全て、障害者と社会の隔絶を加速させる。

もう自分は彼を名誉健常者とみなしている。彼とは利害をもはや共有できない。

 

醜悪な精神障害者として自分が望むことは、善性の増大とはむしろ逆の、醜悪さに対する社会的寛容である。

共感も信頼も必須ではない。このような解釈が実在することを承認させればよい。

その上で、政治による対症療法が継続されるようになる事を自分は希望している。昨今の政治的腐敗を好機と感じているのだ。

 

副業が軌道に乗りそうなため、更新頻度はこのままになりそうだ。勘弁してください。

 

 

安心社会と信頼社会 そして一神教の存在と不在

前に言った通り本の話をする。

 

自分の価値観の指向性を確定させたのがこの本、"安心社会から信頼社会へ:日本型システムの行方"である。

 

この本で自分は日本と海外では社会的関係性及び規範意識の構築のされ方が全く違うと理解した。

本書で記載されている"安心社会"と"信頼社会"の定義と違いはこうである。

・安心社会

関係性の固定(コミットメント)化、構造化を行い、各種リスクの軽減及び無力化を図る社会環境

・信頼社会

関係性の流動化とリーダーシップ(信頼性)による各種利益の最大化を図る社会環境

 

日本が安心社会、海外が信頼社会と言われている。余談だが、安心社会の形態をとっている国は世界で日本のみである。

本書にはこの傾向を裏付ける様々な研究があるが、ここでは割愛する。

 

これより自分の想像となるが、安心社会と信頼社会の本質的な違いとは、一神教の歴史の有無である。

 

信頼社会の維持のためには、信頼できるものとできないものを区別するための世俗を超越する強力な規範、すなわち神が必要となる。

世俗に属する規範では人間の都合がつく限り、改変されたり無視されたりする。これだと信頼性の分裂が起き、統合の用を成さない。また多神教では厳しい。多神教では神の世界にも世俗の不信性が持ち込まれてしまい、規範となり得ない。

このため信頼社会(=海外)では、ほぼ全ての地域で一神教一神教神権政治の歴史が存在する。

 

安心社会では規範は各々の集団の中で規定すれば事足りるため、神への帰属を必要としない。せいぜい自然の象徴として崇敬されるのみである。

世俗を超越する規範意識の視点も社会に存在しないため、人間は建前と本音を堂々と使い分けるようになる。

倫理規範に根拠を定義できないため、人間の解釈に責任の概念を付与できない。このため事なかれ主義が積極的に利用される。また目的意識の定義が曖昧な政界等では責任が有名無実となる。

一神教はおろかあらゆる神、規範が軽視される。

 

こう書くと安心社会が致命的に劣るように聞こえるが、弱者にとっては安心社会の方が絶対的に良質である。

なぜなら、安心社会では信頼性の欠如のみを理由に排除はされないからだ。信頼社会では、信頼性的に劣っているものに徹底的な淘汰圧がかけられる。存在意義の否定もざらにある。

 

さらに、資源問題や環境問題、格差問題の顕在化に伴い、強者にとっての信頼社会の優位性も薄れている。

自分はこれから海外でも安心社会的価値観が評価され始めると思っている。

 

あとがき

アファンタジアと短期記憶障害の自分にとって、書評はかなり難しいものとなった。メモが意味をなさないため、書きながら要約する他なかった。何回も書き直し、相当な時間を要した。

思えば読書感想文はまともに書けず、見本を丸写ししていた。変に賞を取らないように其時の模範作文を一字一句ずらさず用いていた。当時は自分の発達事情を鑑みて見逃されていたのだろう。

安心社会の無責任さを自分は気に入っている。自分そのものであり、保障となっている。信頼社会が日本に持ち込まれない事を祈る。

今後も各種事象の解釈に本書の引用を用いようと思う。更新頻度も元に戻したい。

自分の政治的価値観について

自分は"善い"だけのことが嫌いだ。

 

自分は時事ネタで毎日SNSを周回しているのだが、どの事柄で検索しても他者の存在を否定してくる輩が必ずいる。己の"善さ"に合流しない人間は存在してはならないと言わんばかりだ。

 

一般的な"善さ"から排除された人々は、影響力の市場に新規で参入する人間達の絶好の顧客となる。今や奇を衒った団体があちこちにできている。だが、彼らも"善さ"を主張せざるを得ない。これでは排除の論理の応酬となり、彼らを平穏からますます遠ざける。

 

自分は中〜重度の注意欠陥障害を持っているおかげで、人間性においての"善さ"を実現できる可能性がない。自分は常に"善くあり得ないもの"だ。

どれほど善く解釈できる価値観であろうと、

"お前らが全員消えれば社会がより善くなる"

なんて価値観に持続可能性があるはずはない。

 

多様性の尊重と排他性の否定を"善さ"と見立てる人もいるが、その解釈は破綻している。

そもそも"排除"という概念を経由せずには"善いもの"と"善くあり得ないもの"の区別などできないのだ。

さらには善とは、"最終的には1つしか存在できない"と古今東西のあらゆる哲学によって定義されているのだ。

"善さ"を求める価値観は永遠の闘争を呼ぶ。平穏は遠ざかるばかりだ。

 

故に自分は"善さ"が嫌いだ。

物事は善いかどうかに関係なく、持続可能性が保たれていなければ妥当と言えない。

社会をより善くしたいとも思わない。他者を積極的に排除する趣味はないし、血の雨が降る中で暮らしたくもない。

自分はこの思考を持つ上で、日本社会のあり方は結構気に入っている。これについてはもう少し読者が増えたら話すかも知れない。

 

次回は自分の社会的関係性の解釈の形式を確定させた本のことを書こうと思う。

短期記憶障害と映像記憶障害(アファンタジア)の醜悪な組み合わせ

自分はメモが取れない。

 

紙にものを書きにくいのもそうだが、紙に書いても自分の記憶の延長にできないのだ。書き終わった瞬間に無関係の紙ペラになる。

 

これは自分の短期記憶障害(ワーキングメモリを含む)と映像記憶障害(別名アファンタジア)の複合症状だと考えている。

 

短期記憶障害とは、短時間内に起きた新しい出来事を記憶する機能及び短時間における情報処理能力が低下する障害である。例えば、話を聞きながらメモを取ることが困難になる。

本来はもっと複雑な症状群なのだが、今やネット中に情報があるので割愛する。

 

もう一つが映像記憶障害、別名アファンタジアである。この障害の特徴は、

・映像を記憶できない

・記憶の映像化ができない

・情報を映像に落とし込んで処理することができない

というものである。

これにより、メモを書いてもその内容を映像として記憶したり、自分の認知領域に紐付けしたりできなくなる。

 

こうなるとメモが全くの無意味になる。

注意欠陥と短期記憶、映像記憶が死んでいるおかげで、

・まずメモを取るのを忘れる。

・たとえ取れてもしまった場所や取り出す行動を忘れる。

・たとえ取り出せてもその紙は自分と無関係の紙ペラとしてしか認識されない。

というわけ。

 

学生の頃はノート1枚すらまともに書けなかった。かろうじて写せても何の記憶にも残らなかった。

読解力が人並みより少し多くあったため、中学までは学習についてこれていた。

だが高校に入って短期記憶、ワーキングメモリ、映像記憶をフル活用する複雑な学習が必要になった時、どうにもならなかった。その頃の自分の事はもうよく覚えていない。

 

趣味のゲームも楽しめるものが限られる。対戦ゲームは軒並みダメだ。桃鉄(1人)やRPG系ぐらいしかない。最近は飽きてきてしまった。

暇すぎてブログを始める理由になった。

 

達成感を得る現実的手段が欲しいなあ。

醜悪な自己紹介

注意欠陥とは本当に醜悪な障害だ。

幼児には発達段階で保護者、ひいては他者との注意の共有を通じて社会性やコミュニケーションスキル、尊重、信頼、反省といった概念の学習がなされる。この現象を共同注意と呼ぶ。

注意欠陥障害者にはこの現象が起こらないのだ。上に挙げた全てのスキルが習得できない。

共同注意が生成できないため、他者を尊重も信頼もできない。自己の課題に注意を払えないため反省もできない。

これで他者に配慮を求めるなどなんて醜悪な振る舞いだろうか。

 

脱線はこのあたりにして、自己紹介に移ろう。

1.名前

人間廃棄物。この名前はイギリス・リーズ大学の社会学教授を務めた故ジークムント・バウマン氏の著書からとっている。本自体は読んでいないが妥当な言い回しだと思った。20代。

2.趣味

ゲームとSNS。ペルソナメガテンシリーズや桃鉄スイッチ、ドラクエシリーズをプレイ。

将来的にSNSで稼ぎたい。はるか遠い夢だが。

3.嫌いなこと

注意資源の使い道、価値観の統合を他者に強要されること。

4.家族構成

両親と三人暮らし。祖母と弟がいる。両親は少し古い人間だと感じる。

5.仕事

B型作業所に籍のみ置いている状態。基本給1500円。時給10〜20円。家にいた方がまだまし。

6.興味のあること

政治経済及び哲学他の論評。醜悪な人間性の視点から社会的関係性の在り方を見ていきたい。

7.当ブログの方針

時事の論評と障害者の世界を主に扱う。気が向いたらゲームや食事の記事を扱うかもしれない。

 

8.最後に

ろくでもない人たちに読まれるといいなあ。