自分は"善い"だけのことが嫌いだ。
自分は時事ネタで毎日SNSを周回しているのだが、どの事柄で検索しても他者の存在を否定してくる輩が必ずいる。己の"善さ"に合流しない人間は存在してはならないと言わんばかりだ。
一般的な"善さ"から排除された人々は、影響力の市場に新規で参入する人間達の絶好の顧客となる。今や奇を衒った団体があちこちにできている。だが、彼らも"善さ"を主張せざるを得ない。これでは排除の論理の応酬となり、彼らを平穏からますます遠ざける。
自分は中〜重度の注意欠陥障害を持っているおかげで、人間性においての"善さ"を実現できる可能性がない。自分は常に"善くあり得ないもの"だ。
どれほど善く解釈できる価値観であろうと、
"お前らが全員消えれば社会がより善くなる"
なんて価値観に持続可能性があるはずはない。
多様性の尊重と排他性の否定を"善さ"と見立てる人もいるが、その解釈は破綻している。
そもそも"排除"という概念を経由せずには"善いもの"と"善くあり得ないもの"の区別などできないのだ。
さらには善とは、"最終的には1つしか存在できない"と古今東西のあらゆる哲学によって定義されているのだ。
"善さ"を求める価値観は永遠の闘争を呼ぶ。平穏は遠ざかるばかりだ。
故に自分は"善さ"が嫌いだ。
物事は善いかどうかに関係なく、持続可能性が保たれていなければ妥当と言えない。
社会をより善くしたいとも思わない。他者を積極的に排除する趣味はないし、血の雨が降る中で暮らしたくもない。
自分はこの思考を持つ上で、日本社会のあり方は結構気に入っている。これについてはもう少し読者が増えたら話すかも知れない。
次回は自分の社会的関係性の解釈の形式を確定させた本のことを書こうと思う。